ケインズの描いた経済学者の理想像

「彼はある程度まで、数学者で、歴史家で、政治家で、哲学者でなければならない。彼は記号も分かるし、言葉も話さなければならない。彼は普遍的な見地から特殊を考察し、抽象と具体とを同じ思考の動きの中で取り扱わなければならない。彼は未来の目的のために、過去に照らして現在を研究しなければならない。人間の性質や制度のどんな部分も、まったく彼の関心の外にあってはならない。彼はその気構えにおいて目的意識に富むと同時に公平無私でなければならず、芸術家のように超然として清廉、しかも時には政治家のように世俗に接近していなければならない。」(Keynes(1993))


二週間ほど前、TMI内で電気自動車関連の研究に取り組んでいる学生同士で、研究内容を互いに発表し合う勉強会があった。他研究室の友人は、沖縄県での充電インフラの最適配置に関する研究や、消費者の選好に着目した電気自動車の普及の将来予測に関する研究を行っている。TMIの修士論文は、彼らのように研究成果が現実社会に直接的に活かせるような論文が多い。つまり、理論研究よりも実証研究が中心的であるように感じる。

一方、僕の修士論文は理論に重きを置こうとしている。ゲーム理論を用いて生産者、消費者、インフラ業者の意思決定をモデル化し、代替燃料車の普及プロセスを考察しようというものだ。この研究は、当初僕自身が考えていた方向性とは異なり、現実を忠実に再現したモデルにはなっていない。モデル化にあたっては、かなり極端な仮定を置いている。例えば、生産者とインフラ業者はそれぞれ一人ずつ、消費者は車に対して異なる嗜好を持つ四人で、計六人のゲームを考えている。現実には複数の生産者がいるし、様々な業者がインフラ事業に参入しようとしている。消費者も四タイプしかいないはずはない。
勉強会でも、「それって現実とあまりにかけ離れてるよね。」「モデルが単純化されすぎていて、本当にそれって意味があるの?」という厳しい指摘を受けた。僕自身、この研究を通じて実社会に役立つ示唆が得られるか不安な状態だったので、反論することができず、悔しかった。


それでも、この研究は意味があると信じて毎日取り組んでいる。そもそも、ゲーム理論というのは、現実を完全に再現することを目的としたものでなく、複雑な現実の環境を抽象化・単純化して、本来複雑な意思決定の本質的部分を解明することを目的としている。モデルを複雑にしすぎることは、かえって社会経済現象の本質が見えづらくなってしまうデメリットもあるのではないか。
幸い、少しずつ面白い分析結果が出始めている。今僕に必要なのは、極めて抽象化された理論的なモデルから、具体的に現実社会に対しどんな意味を抽出できるかを、経済理論やゲーム理論に通じていない人に対しても、分かりやすく説明することだと痛感している。ケインズが描いた経済学者の理想像に、そのヒントがあるように感じた。数学的・経済学的に緻密に積み上げる論理と同時に、人に分かりやすく伝える言葉を大事にしたいと思った。